再帰する物語たち

文学作品の語りレベル:ジュネット理論で入れ子構造を読み解く

Tags: 物語論, ジェラール・ジュネット, 語りレベル, 入れ子構造, メタフィクション, 文学理論, 作品分析

文学における語りの多層性:ジュネットの語りレベル理論

文学作品を読むとき、私たちは通常、物語の内容そのものに注意を向けます。しかし、優れた作品においては、誰が、どのような立場で、どのように語っているのか、という「語り」の形式自体が、物語の内容と同様に、あるいはそれ以上に重要な意味を持つことがあります。特に、再帰的な構造や入れ子物語を持つ作品では、複数の「語り」が層をなして存在し、読者はどのレベルの語りを読んでいるのかを意識せざるを得なくなります。

このような文学作品における語りの複雑な構造を分析するための強力な理論的枠組みを提供するのが、フランスの文学理論家ジェラール・ジュネット(Gérard Genette, 1930-2018)による「語りレベル(nivaux narratifs)」の概念です。ジュネットは、その主著『物語の Discours』(原題:Figures III, 1972年に収録)の中で、物語における語りの階層性を明確に提示しました。この記事では、ジュネットの語りレベル理論の基本的な考え方を解説し、それが文学作品、特に再帰的な構造や入れ子物語をどのように読み解く上で役立つのかを見ていきます。

ジェラール・ジュネットの語りレベル:基本的な定義

ジュネットの物語論は、構造主義的なアプローチに基づき、物語の内容(何を語るか)と語りの形式(どのように語るか)を区別し、後者を詳細に分析することを試みました。その中で提唱された「語りレベル」は、物語の中に存在するさまざまな語りの層を区別するための概念です。

ジュネットは、主要な語りレベルとして以下の三つを挙げました。

  1. 外在物語世界(Extradiégétique エクストラディエジェティック)

    • これは、物語全体を枠として包み込む、最も外側の語りのレベルです。物語の作者や、作者に代わる「外在物語世界の語り手」(例えば、作品の冒頭で物語を始める語り手)が位置するレベルと考えられます。
    • このレベルは、読者にとって直接的にアクセスできる最初の語りであり、物語世界そのものの「外部」に存在します。
    • 例:『千夜一夜物語』において、王シェヘリヤザードに物語を聞かせるシェヘラザード自身の語り。彼女の語りは、これから語られる無数の物語全体を包み込む「枠」となっています。このシェヘラザードの語りが、外在物語世界の語り手による語りにあたります。
  2. 内在物語世界(Intradiégétique アントラディエジェティック)

    • これは、外在物語世界の語り手によって語られる物語世界そのものの中に存在する語りのレベルです。物語の中の登場人物が、別の登場人物に対して物語を語る場合、その語りは内在物語世界の語り手による語りとなります。
    • これは、外在物語世界の語りによって作り出された「物語世界の中」で展開される出来事のレベルです。
    • 例:『千夜一夜物語』において、シェヘラザードが王に語る個々の物語(例:「アラジンと魔法のランプ」の物語など)の中で展開される出来事や、その物語中の登場人物がさらに別の物語を語る場合(これは次のレベルになります)。
  3. 超内在物語世界(Métadiégétique メタディエジェティック)

    • これは、内在物語世界の物語の中で、さらに語られる物語の世界です。つまり、物語の中の登場人物が、別の登場人物に対して物語を語るという構造です。これは、マトリョーシカ人形のように、物語が物語の中に埋め込まれた、典型的な「入れ子物語」の構造を示します。
    • 超内在物語世界の語りによって作り出される物語世界は、内在物語世界の物語世界の中に位置付けられます。
    • 例:『千夜一夜物語』において、「船乗りシンドバッドの物語」をシンドバッド本人が語る場合、シンドバッドの語りは内在物語世界のレベルで行われますが、彼が語る過去の冒険談そのものが作り出す世界は、超内在物語世界のレベルに属します。

これらのレベルは階層構造をなし、原則として外側から内側へと移行します。外在物語世界の語り手が、内在物語世界の物語を語り、その内在物語世界の登場人物が、超内在物語世界の物語を語る、という具合です。

レベル間の移行:異化と介入

ジュネットは、これらの語りレベル間を「移行(transition)」する現象にも注目しました。通常、レベル間の移行は、語り手が外側から内側へと語りを進めることで行われます。しかし、時にこの階層構造が破られるかのような、特殊な移行が見られます。

特に重要なのは、「介入(metalepse メタレプシス)」と呼ばれる現象です。これは、ある語りレベルの語り手や登場人物が、それとは異なるレベル(特に外側のレベル)に直接干渉するかのような、語りの境界線を超える事態を指します。例えば、物語中の登場人物が、その物語を語っている語り手(外在物語世界の語り手)に話しかけたり、あるいは読者(外在物語世界のさらに外側、現実世界に位置するとも考えられる存在)に直接語りかけたりするようなケースです。

介入は、物語の虚構性を強調し、読者に「これは作られた物語である」という意識を強く持たせる効果があります。これは文学におけるメタフィクション(作品が自分自身について語る、あるいは虚構であることを自覚的に示す手法)と深く関連しています。

作品例による分析

1. 『千夜一夜物語』における語りレベル

『千夜一夜物語』は、ジュネットの語りレベル理論を理解する上で非常に典型的な例を提供します。

このように、『千夜一夜物語』は入れ子構造が明確であり、語りレベルが外側から内側へと順に配置されていることが分かります。

2. イタロ・カルヴィーノ『冬の夜一人の旅人が』における介入

イタリアの作家イタロ・カルヴィーノの小説『冬の夜一人の旅人が』(Se una notte d'inverno un viaggiatore, 1979)は、ジュネットの語りレベルにおける「介入」を大胆に用いた作品です。

この小説は、読者である「あなた」が、たまたま手に入れた「イタロ・カルヴィーノ著『冬の夜一人の旅人が』」という小説を読み始めようとするところから始まります。しかし、その小説はすぐに中断され、「あなた」は別の小説の冒頭を読むことになり、それもまた中断されます。これを繰り返し、読者は次々と異なる小説の冒頭部分を読み進めることになります。

この作品では、以下の点がジュネットの語りレベル理論と関連します。

この作品における重要な特徴は、内在物語世界の登場人物である「あなた」が、しばしば作品の語り手から「あなた」という二人称で直接語りかけられることです。語り手は、あたかも読者のすぐ隣にいて、読書の状況について語りかけているかのようです。これは、内在物語世界の語り手(「あなた」の行動を描写する語り手)が、読者が存在する外在物語世界(あるいはその近く)に干渉していると解釈でき、典型的な「介入(metalepse)」の例と考えられます。

カルヴィーノはこのような介入を用いることで、読者自身を物語の登場人物とし、読書という行為そのものを物語の主題に組み込んでいます。読者は語りレベルの混乱を経験することで、小説を読むという行為や、虚構と現実の境界について深く考えさせられるのです。

考察と応用

ジュネットの語りレベル理論は、文学作品の構造、特に再帰性や入れ子構造を分析する上で非常に有用なツールです。この理論を用いることで、以下の点をより明確に理解できます。

文学部生の皆さんがレポートや発表で作品分析を行う際には、ジュネットの語りレベルの概念を意識してみてください。作品を読む際に、今読んでいる語りはどのレベルにあるのか、他のレベルとの関係はどうなっているのか、レベル間の境界線が曖昧になっている箇所はないか、といった点に注目してみましょう。これにより、物語の内容だけでなく、その「語られ方」という形式が作品全体に与える効果や意味について、より深い洞察を得ることができるはずです。

まとめ

この記事では、ジェラール・ジュネットによる物語の「語りレベル」理論について解説しました。外在物語世界、内在物語世界、超内在物語世界という三つの主要なレベルを区別し、物語における語りの階層性を捉えるこの概念は、入れ子構造や再帰的な性質を持つ文学作品を分析する上で、基本的な枠組みを提供します。また、語りレベル間の境界線を越える「介入」のような現象に注目することで、作品の虚構性や読者の役割といったテーマについて深く考察することができます。

ジュネットの語りレベル理論は、物語論における多くの議論の出発点ともなっています。この理論を学び、具体的な作品に適用することで、文学作品の構造的な面白さや、語りの技法がもたらす豊かな効果をより深く味わうことができるでしょう。ぜひ、皆さんが読んでいる作品にもこの視点を応用してみてください。